我が麗しの恋女房



 結婚は人生の墓場だ。
 これ、男に限った言葉ではないと思う。





 目の前には若い男。口元まで覆う覆面は今は外されているが、仕事となればそれが顔の下半分まで覆い隠し爛々とした双眸だけが覗くことになるのを知っている。
 美形とまでは言わないけれども、それなりに整った方であろう。青臭さがまだ抜けない精悍な顔つきを、今は悲壮なものに変えた若い男はぐったりとした様子で床に手をついた。
 曰く、

「組頭をなんとかしてください!」

 今にも床に頭を擦り付けそうな勢いで下げる若い男・・・諸泉を正面から見下ろすように頭巾に包まれた頭を見下ろし、湯のみから立ち上る湯気に僅かばかり視界を曇らせながらずず、とお茶を一口啜る。

「まぁまぁ、そう悲壮な顔しなさんな。煎餅でもいかが?」
「そんな悠長にしてる場合ではないんです!殿からの呼び出しなのにあの人どこにもいないんですよ?!」
「職務怠慢ねぇ、解雇しちゃいなさいよ」
「できるわけないじゃないですか!あんなのでも腕はピカ一なんですから!」
「憎たらしいことにねぇ」

 全くです!あれでもっと真面目だったら・・・!と嘆く諸泉のどうでもいいような目で見やりつつ、ばきん、とちょっと硬めの煎餅を割り噛み砕く。がりごりがりごり。しばらく噛むとどろどろと崩れてくるのでごくりと喉を通らせて、胃の中に送り込む。あぁ、美味しい。

「まぁその内帰って来るでしょう。それまで寛いでたら?」
「そんな暢気な!仕事なんですよ?」
「だってあれの行き場所なんて知らないのだもの。帰ってくるのを待つしかないじゃない?」
「奥方ぁ・・・」

 縋るように見られても、行き場所を知らなければ教えてあげることもできないし、戻ってきなさいと手紙を送ることもできやしないのだから、しょうがないことだと思わない?
 そもそも、私からあれに接触してやろうとは欠片とも思ってやしないのだけれど。このまま帰ってこなければ万々歳なんだけどなぁ、とひそりと思っていると、諸泉は(あの男の部下なのが可哀想)しくしく泣きながら煎餅に手を伸ばした。ばり、ばり、と小気味良い音が煎餅から零れ落ちる。

「あ、これ美味しいですね」
「そうでしょう?菊やのお煎餅は絶品よぉ」

 泣いてたくせにけろっとした顔で煎餅を頬張る諸泉に、けたけたと笑いながらお茶もどうぞ、と差し出した。あ、どうも、と気後れせずに受け取るところは肝っ玉が据わっているというべきか。顔もまぁいい方だしねぇ。仕事にも真面目だし、青い所もあるけれど腕もまぁまぁいい方だ。だというのになんの因果かあの男を随分と尊敬しているようではあるけれども。あぁ、だから肝っ玉が据わっているのかしらね?お茶を飲んで人心地ついたのか、諸泉はほぅ、と吐息を零して湯のみを両手で包み、膝の上にのせるとしかし、と口を開いた。

「組頭、ほんとどこいっちゃたんですかねぇ。これじゃ私が怒られてしまいますよ・・・」
「理不尽よねぇ」
「全くです!ですから奥方、組頭になんとか言ってやってください。あなたの言葉なら組頭も頷きますから」
「嫌よ、こっちから接触なんてしたくないっていうのに。大体話しかけたら最後、会話なんて成立しやしないわよ」
「いやあれでも奥方の言葉だけは聞いていますから。私達の言葉など聞いちゃいませんが、奥方のだけは一っ言も聞き逃してないですからあの人!」
「うわぁ、気持ち悪ーい」
「奥方ぁ!」

 いやだって、気持ち悪いじゃない?一言ぐらい聞き逃しなさいよ。顔を顰めて引くように体を後ろに下げると、組頭泣いちゃいますよ?と諸泉に咎められた。それはそれで気持ち悪いわね。どっちにしろ気持ち悪い、という結論に納得しながらも酷い、といわんばかりの視線に弁解するように肩を落とした。

「諸泉、あなた私を愛のない酷い女と思っているようだけれど、それは誤解よ。愛がないのは事実だけれど」
「はぁ・・て、え、ちょ、奥方?」
「そもそもあんな包帯だらけの不審者もここに極まれり、な男の近くにいるだけでも表彰ものというものよ。普通の女だったら近づきやしないわよ」

 まぁ別にこっちとしても好きで近づいたわけではないのだが。むしろあっちから寄ってきたというか・・・あぁ駄目だ。嫌なこと思い出してきた・・・。

「お、奥方?」
「もう本当思い出すだけで虫唾が走るわ・・・出会った日から所構わず付き纏って仕事の邪魔するわ、恋人作ろうと思ったら相手の男脅してどっかやるわ、それでもめげずに結婚まで漕ぎ着けたと思ったら結婚当日に相手の男殺すわ・・・おかげで私にどれだけ不名誉な名がついたことか!あんたそんな男好きになれる?!」
「え、いや・・・!」
「もう本当疫病神よ!今すぐにでも三行半叩きつけて逃げたいのよ!諸泉私をあいつの手の届かないところまで連れてって!!」
「えええぇぇぇぇぇぇ!!!???」

 わぁ!と泣き伏すように両手で顔を覆うと、諸泉があわあわと慌てた様子で「私を殺す気ですか!?」と叫ぶ。それに「私のために死んで!」と言い返すと、不意に周囲の温度ががくりと下がったような気がした。

「うーん、それは困るなぁ」

 低い声が突如湧いて出たように部屋中に響いては消えていく。飄々とした口調ながらも、どこかぞくりと寒気を覚える声に、両手で覆った下からちっと舌打ちを打った。
 渋々と顔をあげれば、部下の首元に苦無を突きつけ、にっこりと片目だけで笑っているバリバリに怪しい男の姿。喉に刃物を突きつけられているせいで喉を反らしながら、身動き一つできないでいる諸泉を一瞥し、ふん、と鼻を鳴らした。

「あら、いたの」
「酷いなぁ、。どこかに出かけたいのなら言ってくれれば私が連れて行ってあげるのに・・・私なら、君のために死ぬことだって出来るよ?」
「あらそう。じゃぁその時は一人で死んでちょうだい」

 間違っても道連れなんて馬鹿な真似しないでちょうだいね。にっこりとこちらも負けじと笑顔を浮かべて見せれば、男、雑渡は君のために死ねるのなら本望だ、と恍惚とした声でのたまった。全く動じてもいやしないわね、こいつ。
 眉間に皺を寄せると、雑渡はそれはそうと、とぐっと苦無と諸泉の喉に僅かばかり食い込ませながら、細めた瞳で低く囁いた。

「尊奈門、君、私の奥さんなに誑かそうとしてるの?困るなぁ、そんなことしちゃあ」
「く、組頭・・・」
「そもそも誰が勝手に会っていいって言った?その上一緒にお茶まで飲んで・・・」

 そういい、薄皮一枚、それこそ血も滲まないような皮一枚をうっすらと削ぐように刃を食い込ませながら、背筋を撫であげるような怖気の走る声で雑渡が諸泉の耳に息を吹きかける。肌を刺すような、というそれ以上に、今正に諸泉が刃を突きつけられているのと同じような殺気を迸らせ、室内の空気を張り詰めさせると雑度は小さく小さく、何かを吹き込んだ。
 それはすぐ正面にいる私にも届かないような小さな声で、覆面越しに動いた口元が耳に触れるか触れないかという近さで囁く姿は、見方を変えればちょっと怪しい光景に見えなくもない。
 もっとも、男の首筋に刃物が突きつけられていなければ、の話なのだが。一気に最初の頃見せたそれよりも顔を青褪めさせた諸泉に、疲れたように肩を落として私は口を開いた。

「雑渡」
「なにかな
「殿がお呼びだそうよ」

 呼びかければまるで犬のように嬉しそうに振り返る。姿に似合わぬ従順な様子を気味が悪いものを見るような目で睥睨してから素っ気無い口調で突き放した。
 雑渡はいささか不満そうに唇を尖らせたような雰囲気をかもしだしたが、相変わらず右手が部下の命を紙一重で維持している様子はなんともミスマッチである。ぴくりとでも動けばすぐに喉を掻っ切られるとわかっているのか、諸泉も微動だにしないところが若くてもプロということだろう。ずず、と少々冷めたお茶を口に含みつつ、さっさと稼いできなさい、としっし、と虫を追い払うような動作で片手を振った。

「あんたのいいところなんてその腕と稼ぎの良さなんだから、油売ってないでさっさと行きなさいよ」
「えぇーは私と一緒にいたくないの?」
「いたくないわね。それよか稼いできてくれるほうが嬉しいわ」
が嬉しいなら稼ぐけど・・・私は君と一緒にいたいんだがねぇ」

 最近仕事仕事で一緒にいられなかったじゃない、と拗ねたように言う姿をちぃとも可愛いと思えない。むしろずっと忙殺されていてくれたほうが私の周囲も精神も穏やかで万々歳なのだが、恐らくは無理な相談なのだろうとわかっていた。はっと鼻で笑い飛ばしつつ、にっこりと微笑みかけてやる。

「働く雑渡って、好きよ」
「じゃぁ頑張って働いてこようかな!」

 ルン、と鼻歌が聞こえてきそうな変わり身の早さですくっと音もなく立ち上がり背中を向ける姿にちょろい、と思いながら、しっかりと襟首を鷲掴まれて逃げることもできないでいる諸泉に生温い視線を向けた。

「じゃぁ行ってくるからね、。待っていておくれよ。今日のご飯は鮭の酒蒸しがいいな」
「生魚でも食ってろ。いってらっしゃい、諸泉」

 お饅頭に詰まった餡子よりも尚甘ったるい声でそういう雑度に、薄っすらと口角を持ち上げて襟首を引っつかまれ慌てている諸泉に愛想を振りまくように手を振れば、ひぃ!と引き攣った悲鳴が諸泉の口から飛び出してくる。
 それもそのはず、先ほどの甘ったるい声とは真逆のおどろおどろしい声色で、雑渡が低く呟いたからだ。

「尊奈門・・・?」
「ちょ、組頭私関係ありませんよ!?お、奥方もやめてください!人の命縮めて何が楽しいんです?!」

 そうやって涙ながらに訴える諸泉に対して、雑渡はずるずると無言で外へと引きずっていく。口でこそ最早語ろうとはしていないが、その背中は無言の圧力を兼ね備えて冷え切っている。いっそ怒気でも膨れ上がっていればマシなものを、まるで凪いだ湖面のように一見静かなのが後々の恐ろしさを膨れ上がら、ありゃ血を見るかもしれないな、と諸泉の顔の悲壮っぷりが増す中で、私は落ち着いた風情で湯のみを傾けた。

「ストレス発散って、いいわよねぇ」

 あぁこれで、あいつの仕事が長期のものならば何よりなのだけれど。遠ざかった所で悲鳴の一つも聞こえないことに、どんな脅しをかけていることやら、と私はお煎餅を一枚、ガリリと噛み砕いた。