末永く、お側にお仕え致します。



 一体、何が間違っていたのだろう。
 傷だらけで寝床に横たわる主の姿を傍らに座して見下ろしながら、前田藤四郎は漠然と考えた。白く薄い瞼を閉じて、今にも途切れそうな細い寝息を零す主の、血の気の失せた青白い顔は生きているのを疑うぐらいに白い。それでも薄く開いた元は瑞々しい果実のようだった、今は乾き罅割れた唇から零れる細い吐息が今はまだその灯が消えていないことを告げていた。白い敷物に広がる、長く綺麗だった髪は見るも無残に切られ、整えられることのないザンバラな毛先を眺めて、主君が起きた時に整えよう、と瞬きをする。
 布団からはみ出て小袖から覗く腕は細く、白い包帯が幾重にも巻かれて痛々しかった。包帯が巻かれているのは、何もそこだけではなかった。前田は知っていた。華奢で柔らかく、荒事などには向かない主の体の至る所に、癒え切れない傷跡があることを。衣服によって隠れた肌の上には包帯が巻かれ、肉付きのよかったその肢体が今や見る影もないことを。
 綺麗な肌だった。前田の知る中で、恐らく一番綺麗な体を持っていた。傷など似合うはずもないクリーム色をした滑らかな肌に、張艶の伴った瑞々しい肢体。胸元は決して大きくはなかったけれど、柔らかな弾力を伴っていたことを知っているのは恐らく懐刀たる短刀の特権だっただろう。柔く、細く、小さな、守られるべき女性の、凛とした立ち姿を、今でも瞼の裏に思い描ける。あぁけれど、その姿の、なんと遠いことか。今、その守られるべき主君は、似合うはずも負うはずもなかった傷をこさえて、こうして力なく横たわっているだから。
 今一度、何故、と前田は問うた。誰に、というわけでもないが、それでも問わずにはいられなかった。
 何故、主君がこのような目に遭わねばならなかったのか。その理由を考えるも、ついぞ前田の頭ではその理由に思い至らなかった。
 前田の掲げる主君は、決して有能な主とは言えなかったかもしれない。数多の刀剣を従え、歴史を犯す不届きものを葬る軍の将を務めるものとして、その知略も武力も決して恵まれたものではなかった。およそ闘う場には相応しくない幼い少女であることは否めず、誰も彼女にそこまでのものなど求めていなかった。
 ただそれでも、彼女は優しかった。将としては望めずとも、だからといって諦めることはしなかった。少なくとも誰もが感嘆するような策を練ることはできずとも、誰かの傷が最小限になるような努力を怠ったことは無かったし、怪我をすればすぐに癒そうと備えは万全だった。己の及ぶ限りで、彼女は主君たろうとしていたし、歴史を守ろうとしていた。本丸を居心地のよいものとして、刀剣と絆を結び、時にぶつかり合おうとも、わかり合おうとしていた。向き不向きはあっただろう。苦手な者もいたかもしれない。至らぬところも嫌になるところも、きっと数えきれないぐらいにあった。だけどそれと同じぐらいに、素晴らしい所も好ましい所もあった。
 それでよかったのだ。それ以上の何を望んだだろう。無論もっとこうだったら、という望みがなかったはいえない。欲とは限りないものだ。けれど、現状でも十分だと思えるぐらいには満たされていたはずだ。あぁ、やはり、いくら考えても、主君がこのような目にあう理由など、終ぞ考え至らぬ。では、何故こうなってしまったのだろう。その理由は簡単に行き着いた。
 以前、前田も主も、ここではない本丸にいた。元より少女が一から築いた家とも呼べる場所だった。前田はその本丸で、彼女が初めて鍛刀した刀だった。彼女の初期刀はいない。折れてしまった。検非違使というものに遭遇し、仲間を守るために折れてしまった。だから、本丸の最初を知る、主の初めての刀は、前田だけだった。それを後からきた人間が乗っ取り、あまつさえ少女を追い出したのだ。
 それだけならばまだいい。最悪だったのは、少女を主と慕っていた刀剣までもが、少女ではなく乗っ取りを企てた輩についたことだった。信じられなかった。前田と同じく少女を慕っていたはずの仲間が、少女ではなく後からきた、審神者のさの字も碌にわかっていないようなひよっこを選んだことが。何故、と問うた主をせせら笑った彼ら。同じ本丸で月日を過ごしたとも思えぬその姿に、泣き崩れた主を見下したあの小娘。叶うならば、あの喉笛に自らを突き立て、その醜悪な顔を切り刻んでやったものを。それは主に止められて、叶うことはなかったけれど。
 珍しい、顕現することが稀な刀を侍らせて、商売女のようにしな垂れかかる女の目的は明白だった。それなら、刀剣だけ持っていけばよかったのだ。欲しいのなら刀剣ぐらいくれてやればよかったのだ。所詮前田も、小娘についた彼らもただの物。下げ渡されることがさして珍しくもない刀剣なのだから。しかし、何も本丸まで明け渡さずともよかったはずだ。それでも、あいつらは刀剣だけでなく家さえもよこせと厚かましく要求してきた。上からの命令に抗い切れるはずもなく、主は前田だけを伴い本丸を出て行かざるを得なかった。そして与えられたのが、この場所。
 主とは似ても似つかぬ非道の審神者がその猛威を振るっていた哀れな本丸。虐げられた刀剣の付喪が、全てを呪い、恨み辛みに悪鬼に落ちかけた場所。
 主から全てを奪っておいて、与えたのがそのような悪辣な場とは、いっそ笑えるぐらいに酷い話だ。それでも、自分も主も、ここの刀剣に同情した。本来ならば願い願われ、敬い親愛を交わし会い、そうして共に手を取り合うはずだった全てを、踏みにじられたのだから。哀れだった。悲しかった。だから手を伸ばそうと。もう一度やり直そうと。どうかまた、笑ってほしいと。そう思ったはずだった。そう、願っていた。
 返されたものは、あまりに酷な仕打ちだったけれど。最初はしょうがないと思っていた。主も己も。彼らはそれだけのことされてきたのだからと。怒りも恨みも真っ当なもの。先に不敬を働いたのは人間なのだからと、甘んじて受け入れた。いつかはきっと、自分を見てくれるはずだと笑って。無論己も。本来ならば彼らは人に害為すような存在ではない。同じ付喪神としてわかっていた。今はただその御霊に穢れが溜まり荒ぶっているだけ。
 きっといつか、かつての本丸のように穏やかな日々を受け入れてもらえるはずだと。
 何より自分の兄弟がいた。彼らのことを思えば、前田に突き放せるはずもなく。救えるものならば救いたいと請うのは当然のことだった。
 けれど、一週間過ぎ、二週間が過ぎ、一月、二月。時が流れるにつれて、いつしか揺らぐ想いがあることも事実だった。だって、彼らは、変わらなかった。主の差し伸べた手を切りつけた。無抵抗の体を甚振り、嘲り、罵倒する。与えられる献身を当然だと吐き捨て、自分たちの苦しみがこの程度で癒えるかと更に搾取する。
 いつしか、主の顔から笑顔が消えた。代わりに増えるのは傷ばかり。しなやかだった体がやせ細り、花の顔に暗い影が落ちる。輝く瞳が暗く淀み、小鳥のような声が掠れた老婆のように枯れていく。そんな姿をみても、手を指し伸ばすどころか、伸ばした腕で頬を張るのだ。髪をひっつかみ、切り落として、唾を吐きかける。
 守りたかった。主を。守らなければならなかった。主君を。けれど前田は一人で、振るえる刀は小さな己だけ。足りなかった。圧倒的に。弱かった。どうしようもなく。
 取り押さえられれば抵抗などできなかった。嬲られれば容易く地面を転がった。言葉は届かず。主が願えば刀も握れず。どうしようもなかった。どうしようもなかった?
 ぱちり。瞬きをした。茫洋とした視線をはたと定めて、前田は主君の寝顔を見下ろす。
 あどけない寝顔。今このときばかりは、現の苦痛を忘れて幸せな夢想に浸れるのだろう。それとも、夢を見る余裕もなく、深く沈んでいるのか。どちらでもよかった。ただこの人が心安らかでいられれば。
 そうだ。前田は瞠目した。自分はただ、この人が心から笑ってくれればいいのだ。心から笑って、泣いて怒って、楽しんで。心身ともに健やかに。この穢れた戦場において、陽だまりの中で待っていてくれることを願っていた。幸せに。どうか幸せに。何に脅かされることもなく。何に傷つけられることもなく。どうかどうか、穏やかに。
 
「主君を、お守りするのが、僕の役目」

 それ以上に優先するべきことなど、果たしてあったのだろうか?そのことに気づいた瞬間、前田の視界を覆っていた暗澹たる闇が、ぱっと晴れたかのように光が差した。
 そんなものありはしない。歴史を守ることこそが御役目というだろうか。けれどそれも目の前の人がいなければできぬではないか。そうだ。なんて簡単。なんて当たり前のこと。今更だ。今更すぎた。あぁ、本当に。

「申し訳ございません、主君。この前田藤四郎、あまりにも愚かでございました」

 細い手を握り、撫でて、そっと頬に寄せる。すり寄るように擦りつけて、はんなりと彼は笑みを浮かべた。

「主君以外に、優先すべきことなどありましょうか。あぁ、そのことに気づくのに、これほどに時間をかけてしまうとは・・・なんたる失態。この罰は如何様にでも受けます故、どうか、今一度、僕に機会をくださいませ」

 もう間違えない。誤らない。そうだ。何を間違ったかなど、これ以外にあるはずもないじゃないか。答えを見つけ、そっと抱いた腕を降ろし、丁寧に布団の中に戻してから、前田藤四郎は手をついて後ろに下がり、深く頭を下げる。さらりと切り揃えられた茶髪が頬を滑り、畳に額を押し付け、じっとその編目を見つめた。
 やがて満足したかのように顔をあげると、瞳を細めて主を見やる。浮かべた微笑みの慈愛は深く、唇だけで、音を紡いだ。

「行って参ります」

 己を手に取り、音もなく立ち上がる。踵を返し、そっと引いた障子戸の向こうは御誂え向きに、新月だった。あぁ、なんと佳き日か。丸い瞳にしっかりと庭の様子を映しこみ、外套を揺らして前田は廊下をしずしずと歩いた。
 己は刀。己は武器。人の手にあるが道理のただの道具。優先すべきは扱う人の子。己が主君以上に、守るべきものはない。そんな当然のことに、今の今まで気づかないなんて!
 くすりと笑って、寝静まる屋敷の中を歩いていく。

「僕の誤ちは、主君に仇為すものを、みすみす見逃したこと」

 持ち手が違えば、刃を交わすが刀の定め。
 嫌だとごねても詮無きこと。嫌だとごねるもおこがましい。主君の為に、敵を屠る。それこそが刀の誉れだろう。
 喉笛を掻き切って、血飛沫が壁を染める。次々と消えゆく大きな影に、踊るように刀を翻す小柄な姿。月のない夜の恐ろしさ、彼らは知っていただろうか?
 罅割れた刀身を踏みつけて、ぱきり、ぺきり。悲鳴も怒号も懇願も、全ては意味のないことだ。

「前田、どうして・・・!」

 悲痛な問いかけ。悲痛な問いかけ?己の思考に小首を傾げ、あぁそうか、彼らは自分の、と思いながら、だがそれがどうしたと吐き捨てた。
 翳した刀身に迷いはない。心の臓に突き立てて、震えて力のない手からそっと刀身を抜き取る。その顔を絶望が彩るも、感慨も情も涌かない。だって彼らは敵だ。前田の主君を傷つけ損なう許しがたい侵略者だ。膝をつき、口角から血を垂れ流しながら、縋るように伸びてきた腕をぺしりと払う。その瞬間の、蜜色の瞳が浮かべた恐怖の意味を正確に理解しながら、前田はそっとその滑らかな頬を撫で――爪を立てた。

「随分とお綺麗な顔ですね。主君はあれほどに痩せ細り、肌の艶もなくなったというのに。その綺麗な顔も体も、一体誰から得たものですか?」
「ま、まえ、だ・・・」
「愚かだったのです。守るべきものを履き違えた。たった、それだけのことなんですよ、いち兄」

 甘さが主を脅かすのなら、捨て去るが道理というものでしょう?囁き、見開いた瞳に映る姿の、幼い顔が歪む。ほろりと零れた雫が前田の指先を濡らした。
 それを厭うように頬から手を放し、ずるりと突き立てた刀身を抜いていく。支えを失った体がどう、と地面に倒れると、それを一瞥して前田はずりずりと剣先を地面に引きずりながら、庭先に鎮座している岩の前に立った。小さな体には過ぎる大きな太刀を岩の前で振り上げて、剣先が真っ直ぐに天を指す。しかしそれを照らす月明かりはない。けれど代わりにちかちかと小さな星明りが頭上一杯に降り注いで、前田はぽつりと呟いた。

「―――もっと早く、こうしていればよかった」

 振り下ろした刀身が、岩に叩きつけられる。パキィン、と鈍い音をたてていとも容易く、腹から真っ二つになった太刀の鈍色の刀身が周囲に散らばる。
 折れて砕けた鋼の欠片を見下ろし、後ろを振り返る。そこに地面に付していた人影はなく、闇夜にぼうと浮かぶ本丸の静かなこと。その静寂を纏った屋敷を眺め、前田藤四郎は人心地ついたようにほぅ、と吐息を零した。

「明日から、忙しくなりますね」

 滲むように東の空が明るさを帯び始めた頃、本丸の庭は朝日を受けて、きらきらと輝きを増していた。