世界が変わるのは一瞬だ。
世界で1番速いのは、姉なのだと思っていた。
※
私の家族の話をしよう。父は某家電メーカーの社員で、母はスーパーのレジ打ちで、姉は整体師を生業として生計を立てている。父母共に健在で、実家は地方で、私と姉は上京して各一人暮らしをしているような、ありふれた家庭だ。実家に帰るとしたらお盆か年末年始ぐらい。連絡もさほど頻繁には交わさず、姉妹間の交流もあってないようなもの。かと言って不仲であるわけでもなく、便りがないのは元気な証拠、と思っている。まあ、不仲でないことが仲が良いの対義語ではないけれど。
ありふれた家族ではあるけれど、少しだけ周りと違うことがある。私の姉はウマ娘である、ということだ。家族の中で唯一、姉だけが。母はヒトで、勿論のこと私もヒトだ。ウマ娘は女しか生まれないので、勿論父はヒトである。ウマ娘からウマ娘が生まれる確率が圧倒的に高いが、ヒトからウマ娘が生まれることもある。私の家系の場合、母方の祖母の妹がウマ娘だったからだろう。血筋的に、ウマ娘が生まれる可能性はゼロではない。名門ほど連綿と続いているわけではないが隔世遺伝のように生まれることはあるということだ。
姉がウマ娘であること。それは家族にとって少しだけ特別なことだった。なにせ、ウマ娘の身体能力はヒトを優に凌駕する。特にその脚力は言うに及ばず、競技の世界に入らなかったウマ娘でさえヒトには到底追いつけない速度を出せるのだ。ちなみに、走るウマ娘は車とほぼ変わらず、仮に路上でウマ娘が走っていてヒトとぶつかった場合、ウマ娘側の過失になることが多い。まあ、交通法の改正やなんやで一昔前よりかはいくらかヒト側の過失も認められるようになったが、それでも被害の大きさが違い過ぎるのでウマ娘が競技場で走る以外は細心の注意が必要とされている。…それは兎も角、そんな存在が家族にいれば、本人は兎も角家族は多少の夢を見る物だろう。ウマ娘が走るレースは、それほどまでに大きく、壮大で、夢を見せる物だから。賞金的なものも勿論多数を占めている部分はあるが、鎬を削るウマ娘達のレースは正に圧巻の一言に尽きる。
父母も、そんなよくある期待を姉に掛けていたものだ。ウマ娘ならば。その親ならば。レースに出て華々しく活躍する姿を夢想しない日はないだろう。基本的に、ウマ娘は走ることにしか興味が向きにくい。本能なのだろうか。まあ、成長過程において違うことに興味を持つウマ娘もいるので、全てが全てではないけれど。本能だとするならば、姉が競技の世界に飛び込んだのも至極当然の路線だったに違いない。
姉は速かった。ヒトは言うに及ばず、ウマ娘の中でも。私は、姉が負けた所を見たことがなかった。風のようにターフを走り抜ける姿は、幼心に憧れを抱くほどに。到底、追いつける筈もない夢ではあったけれど。
世界で1番速いのは、姉なのだと信じて疑っていなかった。きっと、誰が相手でも姉が1番にゴール板を駆け抜けるに違いないと思っていた。長い青毛のポニーテールを靡かせ、息をすることが当たり前のことのように、姉が勝つことも、そう思っていたのだ。
姉が、地方から中央に移籍するまでは。
※
ワアァ、と沸き起こった歓声にバツン、と物思いに耽っていた思考がチャンネルを切り替えたかのように目の前の光景を映し出す。
2200m、芝。右回り。青々としたターフの上を、今正にウマ娘達が駆けていった。歓声は、レースが終わり順位が決まったからだろう。ざわめく中で、興奮を隠さず様々な声が飛び交う。あのウマ娘はすごい、うちに欲しい、才能がある。レースの結果や走りから、方々からあがる感嘆と期待、興奮の声にパチパチと瞬きを繰り返した。観客席からレースを見学していたトレーナーが一斉に目当てのウマ娘に向かって駆け寄っていく。これは選抜レース。トレセン学園に通うウマ娘がデビューする為に走る謂わばオーディションのようなものだ。
このレースでトレーナーはウマ娘の才能や実力を評価し、彼女たちの夢を後押しする為スカウトをする。そして二人三脚でレースを目指すのだ。勝利は栄誉だ。勝つことに価値がある。ウマ娘の才能を生かすも殺すも、トレーナーの手腕にかかっている。柵にもたれかけていた腕を見下ろし、溜息が零れた。
ぼんやりと熱心にウマ娘に声を掛けている先輩トレーナー達を眺めて、ふるりと頭を振った。自分もスカウトに行かなければ、と思うけれど、酷く億劫だ。物思いに耽っていたせいか、彼女たちがあまりに真剣に、眩かったからか。果たして私なんかが声をかけていいものか、とポトリと染みのような黒点が胸中に落ちた。
「やっぱり向いてないのかな…」
溜息混じりに呟く。ウマ娘に負けない熱量で、彼女たちに夢を語る同僚の姿は走る彼女たちに負けず輝いている。
熱量。熱意。きっとそれは、才能以上に必要なものだ。あるいは、覚悟や決意といった、背負うに不可欠な要素とも言えるのかもしれない。ずっしりと、別に誰に声をかけたわけでも、かけようとしてるわけでもないのに勝手に肩が重く感じる。何も始まっても、始めてもないのに。バカだなぁ、と自嘲してもたれかかっていた柵から身体を離した。昔のことを思い出したからいけない。こんな気持ちではスカウト所ではない。こんな鬱屈したトレーナーに声をかけられた所で、ウマ娘も迷惑なだけだろう。断られるのが関の山だ。今日は帰ろう。選抜レースは今日だけではないのだから。溜息をまた一つ零し、踵を返した。
ボフン。
「ぶふっ」
「あらあら、ごめんなさい。大丈夫ですか〜?」
やや間延びしたような、のんびりとした穏やかな声が頭上から聞こえて来る。弾力のあるふわふわした柔らかいものに鼻先を埋め、仄かな甘い香りにパチパチと瞬きを繰り返して呆然と上を見上げた。鮮やかなサファイアブルーの、酷く優しげな眼差しがやんわりと孤を描く。
「お怪我はありませんか?」
「え、あ、ぅ、ぅえっ!?」
にっこりと微笑まれて、ようやく状況を理解した。標準より大分豊満な胸に、私は無遠慮にぶつかってしまったらしい。ぶつかるというか、埋まったと言うべきか…いや、問題はそこではない。慌てて飛び退くように距離を取れば、長い鹿毛の髪を三つ編みに結わえたトレセン学園の制服を着たウマ娘が、あらあら、と片頬に手を添えてはんなりと口角を持ち上げた。
「そんなに飛び退かなくてもいいんですよ?」
「いや!そのっ。ごめんなさい!」
「うふふ。気にしていませんから」
にっこり笑う彼女は本当に気にしていないようだが、こちらは背中に汗が吹き出している。同性だからまだいいものを、いや、同性にしても大分ヤバいセクハラシーンだ。わざとではないとは言え、胸に顔を埋めるなど、知り合いだとしても早々許される行いではない。ましてや相手は学園のウマ娘。ぶつかって怪我でもしようものなら減俸、いや辞職も辞さない相手だ。顔から血の気を引かせながらもざっと佇む彼女の全身を見渡して見える範囲で特に怪我もなさそうな姿にほっと胸を撫で下ろした。
ヒトがぶつかった程度でウマ娘がどうかなることは考え難いが、万が一ということもある。
「本当にごめんなさい。ぼぅっとしていて…怪我がなさそうでよかった」
頭を下げて、真摯に謝る。こちらの不注意なのだから、今後はもっと周りを見なければ。溜息を吐き、顔をあげて苦笑を浮かべると、目の前の彼女は軽く目を見張って唇を僅かに開いた。
「それでは、これで」
「あ…っ。あの、スカウトをしに行かないんですか?トレーナーさん、ですよね?」
長居するものでもないだろう。再度軽く頭を下げて彼女の横を通り過ぎ様に、慌てたように声をかけられる。その声にピタリと足を止め、眉を下げて私と競技場…トレーナーとウマ娘達を見比べる彼女を振り返る。…まあ、選抜レース後に声をかけないなら何しに来たんだって話だよね。そう言えば、彼女もスカウト待ちなのだろうか。制服姿ということは、少なくとも今日のレースには出ないのだろうけれど。それとも、もうデビューが決まっている子なのかな。なんとはなしにそう分析しながら、緩く口角を持ち上げる。へらり、と誤魔化すように曖昧な笑みを口の端に乗せて、そうですね、と頷いた。
「今日は止めておこうかと思って」
「お眼鏡に適う娘はいませんでしたか?」
豊満な胸の下で指を絡ませて、こてんと小首を傾げた彼女にパチパチと瞬きを繰り返す。…お眼鏡に適う?私の?
「…私が選ぶなんて、烏滸がましいなな…」
「え?」
「あぁ、いや。皆素晴らしいから、選べないんですよ。どの娘も才能も熱意もあって、本当に、…選べません」
ウマ娘は才能の塊だ。才能もあって、夢があって、野心がある。誰か、いいトレーナーに出会えれば、きっと花開く才能ばかりで、…けれど、咲けない花もある。才能があっても、能力があっても。
ここは、そういう世界だから。私が伸ばした手が、その子にとっての誤りであってはならない。脳裏に過ぎる青毛に一瞬息を詰め、無理矢理笑顔を作って今度こそ踵を返す。あ、と小さな声が聞こえた気がしたが、あれ以上話すことは何もないのだから、立ち止まる必要もない。あの綺麗なサファイアブルーから逃げるように、私は足早にその場を遠ざかった。
※
トレセン学園のカフェテリアは広い。広大な敷地面積と施設を持つ学園なのだから当然といえば当然だ。その広いカフェテリアが、昼時になれば狭く思えるほどにウマ娘でごった返すことを考えれば、職員やトレーナーのカフェテリアの利用率はあまり高くなかったりする。ウマ娘優先、という暗黙の了解もあるからだが、特にトレーナーは1人一室、専用の部屋を与えられるのでそこで各々過ごすことが多いのも理由だろう。とは言っても、全く利用しないわけではないので時間をずらしてカフェテリアに訪れることはままある。かく言う私も、今日はここの新作の超ロングロング人参アップルアールグレイティが目当てでのこのこやってきたわけである。新商品のポップが飾ってあるカウンターで注文を入れて、通常バージョンですか?特別バージョンですか?の常套句に迷わず特別で。と返す。挑戦者は通常を注文することもあるが、まあ大体にしてトレセンのヒトで通常を選ぶ者はいない。商品を待っている間チラリ、と横目で見たポップのイラストは、紅茶の注がれたグラスの中に超長い人参が垂直にぶっ刺さったシュールなイラストで、これがトレセン学園の通常バージョンだ。そのまんまの人参がぶっ刺さった飲み物が、通常なのだ。人参アップルってこういうことではなくない?と思うがこれがウマ娘にとっての定番スタイルなので何も言うことはない。人参ハンバーグもヒトから見たら違くない??と思うが、人参がそのままの姿でぶっ刺さっているのがウマ娘には堪らないのだから、あれこれ言うのは野暮というものだ。ヒトはそっちを選ばないだけである。とりあえず、擦り下ろされた人参がまるでフローズンアイスのように沈殿する紅茶を受け取り、さて仕事場に帰るか、と顔をあげると、あの!とやたら勢い込んだ声で呼び止められ、おや、と振り返れば、潤んだ菫色の瞳とバチリと噛み合った。
「い、今からお昼ですか?トレーナー」
「…桐生院トレーナー?」
前下がりのボブカットにハーフアップの髪を揺らし、トレーを持った同期のトレーナー…桐生院葵トレーナーが、やたらと強張った顔で問いかけてきた。同期とはいってもあまり話したことがない…いや。ぶっちゃければ会話などしたこともない意外な相手に、何事だ、と軽く目を見張り言葉に詰まる。なにせ、相手はあの桐生院葵である。桐生院といえばウマ娘のトレーナーの間では知らぬ者はいないといえるほどの名門トレーナー一族の名だ。多くの優秀なウマ娘を育て上げた名門中の名門。その跡取り娘が、今目の前にいる桐生院葵その人だ。風の噂でトレーナー試験も大層優秀な成績で合格したと聞いている。彼女の名はまだ実績を出していないにも関わらず学園のトレーナーの間ではベテランから新人まで広がっているぐらいだ。期待値の高いトレーナーであることは言うに及ばず、一般出の新人トレーナーである私とはすでにスタートラインが違うことは明白である。会話する機会など早々あるはずもなく、相手が私の名前を知っていることがすでに信じられない話だ。むしろ何故知っているんですかねこの人??内心の疑問符を真顔で隠しつつ、トレーを持っている桐生院トレーナーの姿に彼女は今日はここで食べるのか、とゆるりと首を横に振った。
「あー、いや。紅茶を買いにきただけ、…そうですそうですお昼の予定です。桐生院トレーナーもお昼なんですね!」
否定を口に仕掛けた瞬間、目に見えてしょんぼりと肩を落とした桐生院トレーナーに慌てて答えを180度翻す。偶然ですねぇ!と愛想笑いを浮かべれば、見るからに表情を明るくして頬を紅潮させた桐生院トレーナーは、でしたら!とやや上擦った調子でぐっと一歩を踏み出した。
「よかったら一緒にお昼を食べませんか!?」
「えっ」
「だ、だめですか…?」
「えっ。あ、いや、ダメではないですが…私と一緒でいいんですか?」
勢いに押されるように半歩後退りつつお伺いを立てると、勢いよくブンブンと頭を縦に振った桐生院トレーナーは是非!と食い気味な返事で鼻息を荒くする。少々気迫に飲まれながら、あ、じゃあ、あっちのテーブルで待ってますね…?と隅の方の観葉植物の影になっているテーブルを指して言えば、わかりました!と溌溂とした返事が返ってきた。元気だな、と思いながら買った紅茶片手にテーブルまで歩き、はたと気がつく。…お昼食べるのに飲み物だけ持っててどうすんだ。いや、仕方ない。ここでお昼を食べるつもりはなかったし、完全にイレギュラー且つ、勢いに呑まれてた。そもそも雲上人みたいな相手と面と向かって会話する機会が食堂であるとは思ってなかったし。…オーダーカウンターの桐生院トレーナーをチラリと横目で見て、とりあえず彼女がこちらに来るまでは動けないな、と溜息を零した。ガタガタと椅子を引いて座りつつ、閑散としたカフェテリアを眺めてテイクアウトのつもりで買ったアイスティの蓋にストローを差し込んでぐるぐるとかき混ぜる。まだ昼食の時間には早く、生徒の姿が見えないカフェテリアはガランとして、背景に流れる有線音楽がよく聞こえた。流行りの曲から昔の曲まで。時にはウイニングライブの曲なんかも流れてくるそれに耳を傾けていればパタパタと早足の足音が近づいて来るのが聞こえた。
「お待たせしました!」
「いえ、そんなに待っていませんよ。それで、入れ替わりで申し訳ないんですが、私メインを注文し忘れてて。ちょっといってきますね」
「えっ、あっ。私が話しかけたからですよね?すみません!あの、待ってますから!」
「先に食べていても構いませんよ?」
「いえ。待ちます」
「そうですか?」
キッパリと言い切られて、僅かに戸惑いながらじゃあまあ、カレーが冷めない内に戻らないとな、とオーダーカウンターまで早足で進む。とはいっても特に食べたいものがないんだよな…。お昼はトレーナー室でinゼリーで済ませるつもりだったし…。………サラダでいいか。そう言えば最近野菜取ってないな、という安直さでサーモンサラダを注文して、そう時間がかからず出てきたそれをトレーに乗せてテーブルに戻ると、やたらそわそわしている桐生院トレーナーに首を傾げる。…さっきからやたらと挙動不審だな。まあいいけど。
「すみません。お待たせしました」
「ハッ!いいいえ!全然そんなっ……それだけですか?」
椅子を引いて座ると、ピシッと背筋を伸ばした桐生院トレーナーが話のトレーの上を見て目を丸くした。
「あまり昼はお腹に入らないんで。いつものことですよ」
「そうなんですか。でも、サーモンサラダ美味しそうですね」
「ここのカフェは味も量もレベルが高いですからねー」
「確かに。美味しすぎてつい食べすぎちゃいます」
あ、トレーナーが食べ過ぎてたら担当の子に示しがつきませんよね。と照れ臭そうに頬を掻く姿に、確かに、と笑ってドレッシングのかかったサラダにグサリとフォークを突き刺す。桐生院トレーナーも丁寧に手を合わせてからカレーにスプーンを伸ばし、ぱくりと頬張って顔を綻ばせた。…晩御飯はレトルトカレーでもいいかもなぁ。
スパイスの香りにいささか食欲を刺激されながらシャキシャキレタスを奥歯で磨り潰す。しばらく咀嚼音だけがテーブルの上に横たわり、まあ、こうなるよなぁ、とごくり、とレタスを飲み込む。ほぼ初対面みたいなもので、話が盛り上がるわけもない。そもそも何故誘われたかもわからないし。向こうも俯き気味にカレーを食べながら焦っている雰囲気だけは感じるので、私はチラチラ視線を泳がせながらあー、と口を開いた。
「桐生院トレーナーは」
「はっはい!」
うわビックリした。話しかけた瞬間食い気味に反応されてビクッと肩を跳ねさせると、あ、と固まった桐生院トレーナーがしおしおと首を窄めた。
「す、すみません…」
「いえ…あの、桐生院トレーナーは、もう担当ウマ娘がいるんですか?」
結局、大した知り合いでもない私たちが共通で差し出せる話題などウマ娘のことぐらいである。いささか地雷を自分で踏みに行っている自覚はあるが、純粋にあの桐生院家の跡取り娘が選ぶウマ娘はどんな子なのだろう、という興味もあった。チラリ、と見やれば桐生院トレーナーは俄かに顔を明るくさせて、はい!と大きく頷いた。
「つい先日の選抜レースで声をかけたばかりなんですけど、ハッピーミークって言うウマ娘で、私のような若輩者でもいいと担当ウマ娘になってくれて!」
「なるほど」
おっと何かに火がついたぞ?
「ウマ娘の中でも珍しい白毛の娘なんですけど、少しぼんやりしている所もありますがでもその走りに可能性を感じまして!これから彼女の脚質にあった走りや適性馬場を見極めていかなくてはならないんですが、私が見た所ミークはオールラウンダーの素質があるのではないかと!あぁでもより勝ちに行くためにはより適性の高いものを選ぶべきですがミークの可能性を狭めてしまうのは勿体ないですよねそれに彼女の希望に沿った道を走らせたいですしミーク自身にも相談をしていやでもトレーナーとして私が道を示さなくてはいけませんよねトレーナー白書にも担当トレーナーは担当ウマ娘を導くためも努力を怠るべからずと有りますしやはりここは私がきちんと見定めていかないと…」
まさに立石に水。流れるように語られるトレーナー論と育成方針、担当ウマ娘への期待。遮る間もないとはこの事だ。いささか呆気に取られながら、止まらない桐生院トレーナーの口にはあ、へえ、なるほど、と相槌を打ちながらひたすらに聞き役に徹する。口を挟む間がない、というのは確かにそうなのだが、合間合間に挟まれる桐生院家の対ウマ娘に対するトレーニング法などは貴重な得難い情報だ。未だ担当を決めても、声かけさえしていない身でありながら、黙って話に耳を傾ける。役立てることができるかもわからないのに、知識だけは貪欲に得ようとしている。そんな自分がどこか滑稽に思えて、生き生きとしている桐生院トレーナーに目を細めた。…彼女のように、なれたらいいのに。冷たいサラダが、シャクリと音を立てた。
やがて話すだけ話して落ち着いたのか、ふう、と息を吐いて水を飲んで人心地ついた桐生院トレーナーが、爽やかな笑顔を浮かべて私を見て、一瞬にして青褪めた。急転直下。紅潮していた薔薇色の頬が、見る間に真白く変わる様は見ている側が心配になるほどだ。倒れないかな、と心配していれば、桐生院トレーナーはひっと一瞬息を飲んだあと、しおしおと項垂れてテーブルに額をぶつけるんじゃないかと思うほど頭を下げた。
「す、すみません…」
「え?」
何が?急な謝罪に目を丸くすれば、青褪めた顔で桐生院トレーナーは目尻にうっすら涙を浮かべていた。何故??
「私ばかり話をして…!つまらなかったですよね?本当にすみません。私、いつもこうで…話すことはウマ娘のことばかりですし、話し始めたら夢中になってしまって、相手の事置き去りにしてしまうことが多くて。…折角、一緒にお昼を食べてくださったのに…」
「…トレーナーなんですから、ウマ娘について語るのは当然のことでは?」
むしろ話を振ったのは自分の方なので、至極当然というか。落ち込む様子にそれの何が問題なのかと思いつつ、むしろ、と口を開いた。
「桐生院家のコーチング法とか、色々聞けたので楽しかったですよ。貴重な話を聞かせて頂いて、有難いぐらいです」
「え?」
「為になるというか、勉強になりますね。特に私は新人で、経験などほぼないですから…桐生院トレーナーの話は、私には大変得難いものでした」
やっぱ代々続く家の実践と経験に基づいた話は、書籍では得られない息遣いを感じる。なにより、ウマ娘への愛を感じる桐生院トレーナーの話は、トレーナーの端くれとして感じ入るものはあっても疎ましく思うことはない。まあ、トレーナー以外にやらかすにはちょっとアレかもしれないが。
「しいて言うなら、カレーが冷めてしまっているので食べ終えてからの方がよかったかもしれませんね」
折角の美味しいカレーも、冷めてしまったら美味しさも半減してしまう。私はサラダだから気にしないが、まだお皿に残っているカレーに眉を下げると、桐生院トレーナーはあ、う、と口をもごもごとさせて、血の気の下がっていた頬に色を戻して小さくありがとうございます、と言った。お礼を言われるほどのことを言った覚えはないが、彼女が嬉しそうにしているので野暮なことは言うまい。桐生院トレーナーがぽぽぽ、と頬を染めながら冷めてしまったカレーを口に運び始めると、ざわざわとカフェテリアの騒めきが大きくなっていることに気がついた。視線を外して周りを見れば、学園の生徒が集まり始めていることに気がつく。あ、生徒の昼の時間に被ってしまったのか。そんなに長いこと滞在していたかと、しまったなぁ、とまだ残っているサラダの残りをシャクシャクと頬張る。生徒達が来る前に退散するつもりだったんだが…まあ、桐生院トレーナーももうすぐ食べ終わるだろうし、そう時間も経たずに席を空けられるだろう。
そう考えているうちに、ばちり、とカフェテリアに入ってきたウマ娘と目があった。思わず大きく目を見開いてしまったのは、そのウマ娘に見覚えがあったからだ。あの、選抜レースで会話したウマ娘。相手も僅かに目を見張ったように見えて、反射的に視線を外して残り僅かなサラダをかき込んだ。何故だか、彼女と会うのは妙に気まずい気がした。
「こんにちは、トレーナーさん」
「ングッ」
しかし、そんな私の気持ちとは裏腹にそのウマ娘は私たちの側までするりと寄ってきて、穏やかに声をかけてきた。口に含んだままのサラダが喉に詰まり、変な音を立てる。
慌てて紅茶を引っ掴んでストロー越しに勢いよく吸い込めば、今度はそこに溜まった摺り下ろした人参が器官に入り込む。げっほ、と勢いよくむせた。
「トレーナーさん!?大丈夫ですか?」
ゲホゲホ、ゴホッ。我ながら酷くむせて咳き込めば、慌ててウマ娘が背中に手を当ててゆっくりと撫でてくる。
「だ、だいじょ、げほっ」
「話さないで、落ち着いてください。下を向いて、ゆっくり息をして…そうそう、ゆっくりですよー」
背中を撫でながら宥めるように優しく声をかけられる。背中を彼女の手が優しく往復して、介護か何かかこれ、と目尻に涙を浮かべながらようやく息が落ち着くと、はあぁ、と大きく深呼吸をして顔をあげることが出来た。涙目で見上げれば、心配そうに眉を下げた彼女と目があい、思わず視線が泳ぐ。
「落ち着きましたか?」
「あ、あー、はい。うん。ごめんなさい、ありがとう」
なんか、彼女には謝ってばかりな気がする。2度目ましてながら、迷惑しかかけてない事実に穴を掘って埋まりたい羞恥を覚えて、さりげなく身体を傾けて彼女から距離を取る。情けないことこの上ない。出そうになったため息をぐっと堪えてそろりと目をやると、にっこりと彼女は笑っていた。なんだか微笑ましいものを見るような視線で、酷く居た堪れない。
「スーパークリーク…」
居た堪れなさになんと言うべきか言いあぐねていると、正面からボソリと声が聞こえて、はっと前を向いた。桐生院トレーナーが、すっかり食べ終わったカレーを前に、まじまじと私の横にいるウマ娘を見つめていた。スーパークリーク。それが、彼女の名前だろうか。
「もしかして、トレーナーの担当ウマ娘は、スーパークリークなんですか?」
キラキラとした目で問いかけられて、一瞬なんのことかわからずポカンと口を開けて、脳内で意味を理解すると同時にサッと顔から血の気が引いた。
「違います!!」
「えっ」
「あ、いや、その。…ごほん。彼女は私なんかの担当ウマ娘ではありませんよ。昨日、偶々話したことがあるだけで」
思った以上に強く否定してしまい、桐生院トレーナーが驚きに肩を跳ねさせた。あ、まずい。咳払いをして気を落ち着け、口角をあげて笑顔を作る。
「そうなんですか。親しそうでしたので、てっきりスカウトしたのかと」
「お恥ずかしながら、まだ一度もスカウトできていないんですよ。えーと、スーパークリーク、さん?でしたっけ。ごめんなさい、迷惑をかけましたね」
「…ふふ。そんなことないですよ〜。でも、今度からは落ち着いてご飯を食べてくださいね…あら?」
正確には、できていないというよりしていない、だが。まあ、そんな些細な違いはさておき、彼女に改めて謝罪を重ねると、スーパークリークは頬に手を添えて小首を傾げて、パチリ、と瞬いた。
「トレーナーさん、もしかしてお昼はそれだけですか?」
「え?あ、あぁ。まあ、そうですね。あまり昼は食べないので…」
下がった眉にギクリ、と別に疾しい事があるわけではないのだが居心地悪く、食べ終わったサラダボールをなんとなくスーパークリークから遠ざけるように押しやる。
「ダメですよ、トレーナーさん。ご飯はしっかり食べないと」
案じるように諭されて、う、と思わず首を竦めた。いや、でも、昼を食べないのはいつもの事だし。それで困ったことも別にないし。モゴモゴと口の中で言い訳しながら、何故こんなにもこのウマ娘に気後れしているのだろう、と視線を彷徨わせていると、クリーク!と彼女を呼ぶ声が空気を変えた。全員の視線が、彼女の名前を呼んだ方向に一斉に向かう。
「なんやそんな所で油売っとったんか。はよせんと席が埋まってまうで」
「タマちゃん」
長い芦毛の髪を靡かせて、小柄なウマ娘が駆け寄ってくる。友達だろうか。親しげな様子にハッとして、急いでガタン、と音を立てて立ち上がった。
「この席、使ってください。私たちは食べ終わったので。ね?桐生院トレーナー」
「え?あ、はい。そうですね」
私も桐生院トレーナーも食べ終わっている。遠慮なく空になったお皿をトレーごと持ち上げてにこ、と笑って席を譲ると、芦毛のウマ娘はパァ、と八重歯を見せて笑顔を浮かべた。
「おぉ、タイミングバッチリやんか。おおきに、トレーナーさん方!」
「いえいえ。では、これで」
「あ…」
そそくさと、逃げるようにトレーを抱えて席を離れる。桐生院トレーナーと並んで返却口に食器を返すと、なんだか背中がムズムズと落ち着かない。…なんとなく、彼女が自分を見つめているような気がして、だけど振り返って確認する気にもなれなくて、きゅっと唇を引き結び、振り切るようにカフェテリアを出る。
カフェテリアに比べて閑散とした廊下に出ると、ようやくホッと肩から力が抜けてすとんと肩が落ちる。
「トレーナー?」
「っ」
はぁ、とため息を吐いた所で、怪訝に話しかけられてはっと振り返る。きょとんと不思議そうな桐生院トレーナーに、しまった、と苦い気持ちで取り繕うように口元を歪めた。
「思ったより長居しちゃいましたね」
「え、えぇ。そうですね。…あの」
「はい?」
笑顔のままこて、と首を傾ける。桐生院トレーナーは何か躊躇うようにパチパチと瞬きをしてから、一瞬だけ息を吐くときゅっと表情を引き締めた。
「トレーナー。またこうして、私とお話ししてくださいませんか?」
「え?」
え?口と脳内、同時に同じ言葉で埋め尽くされる。間抜けな顔になっている自覚はあるが、取り繕う余裕もなくマジマジと名門一族のトレーナーを見つめた。
「私、ウマ娘たちのことになると周りが見えなくなりがちで。その、初めてだったんです。引かずに私の話を聞いてくれた方は」
「はぁ…」
「も、勿論、ご迷惑ならいいんです。でも、その、トレーナーとなら色んなお話しができるんじゃないかと思って…ど、同期ですし。切磋琢磨する仲として、是非話し合う時間が取れたらとお互いにいいんじゃないかと思うわけでして、だから、その」
「…私、まだ担当ウマ娘もいないようなトレーナーですよ?」
「トレーナーなら、きっといいウマ娘に出会えます!」
あ、いや、そうじゃなくて、とワタワタと手を上下させた桐生院トレーナーは、ぐっと両拳を気合いを入れるように握りしめた。
「私が!トレーナーとお話しをこれからもしていきたいんです!」
言い切られ、最後に嫌でしょうか、と不安そうに上目遣いをされてしまったら、嫌です、なんて言えるはずもない。別に、桐生院トレーナーが嫌いなわけでも話がしたくないわけでもないのだ。ただ、釣り合いが取れないな、と客観的に見て思うだけで。名門だとかそういうことの前に、先に述べたように、担当ウマ娘すら決まっていない新人トレーナーと情報交換なりをして彼女にメリットがあるようには思えない。
そんな関係でいいのだろうか、と迷いながら、こくりと頷いた。
「私なんかでいいのなら…」
「っありがとうございます!」
パァ、と不安そうな顔から一転、満面の笑みに思わず目が眩む。改めて思うがこの人顔がいいな、とその顔面力に今更慄きながら、ニコニコな桐生院トレーナーにふっと顔の筋肉を緩めた。…物好きな人。横に並んだ桐生院トレーナーの話に相槌を打ちながら、私はそっと吐息を飲み込んだ。
いいウマ娘に出会える、か。…出会えた所で、手を伸ばせるかどうかなんて、わからないけれど。脳裏に過ぎる、サファイアブルーの眼差しに、そっと瞼を伏せた。…あのウマ娘は、どんなトレーナーの手を取るのだろう。少なくとも、迷惑しかかけていないようなトレーナーは選ばないだろうな、と数々の失態を思い浮かべて、自嘲を溢した。
※
「こんにちは、トレーナーさん」
「へ?」
とある昼下がり。昼食のinゼリーを流し込んでいる最中。ふわふわ笑顔のウマ娘の強襲に、ごきゅ、と、再び喉が変な音を立てた。
え、なんで彼女がここにいるん??
ニッコニコ笑顔にポカンと間抜け面を晒して、私の脳内は有り得ない訪問者に絶賛大混乱だった。